「お盆」が過ぎ、東日本大震災の被災地でも2学期が始まりました。
親や兄弟、友だちを亡くした多くの子どもたちにも、あたらしい生活が始まります。
紹介するのは、被災地のこどもたちの作文です(「文藝春秋8月臨時増刊号」より)。
悲しみにめげず、がんばろうとする子どもたちの、けなげな心が伝わってきます。
そして今、その心を守るケアが何よりも求められています。
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「私はこの地しんと津波で大親友を失くしました。その子は不登校で毎日私に、『今日も休むね』と、いう風に電話をくれたのが最後で、お母さんとお姉ちゃんも亡くなってしまいました。…悲しくて大泣きしました。…でもいつまでも、何なよなよとしてんだ!と言い聞かせ、私は友達の分まで生きようと思いました。まだ、余震が続いていて怖がっている方もいるので、子どもの笑顔で元気にしていきたいです」(名取市小5)
「3日後、2日間食べれなかったし、お母さんも帰ってこなかった3日後、お父さんが『お母さんだよ』とにこにこ顔で言っています。『えっ??』。するとすぐよこにお母さんがいてびっくりしました。私はだきつきました。それから今現ざい。たき出しもトイレも水せんになって、毎日が幸せになりました。学校も始まって友だちとひさしぶりに会ったし、電気もついたので毎日楽しいです。もし、家をかりたら転校するのかなあって考えるけどはなれるのは悲しいです。そして、この津波の事を、大人になっても一生わすれないとちかいました」(石巻市小3)
「仲良くしてくれた友達のお母さんがなくなったり、本当にいっしゅんの事でたくさんの人が亡くなった。私のおばあちゃんも行方不明だけど、今までなかった、いはいが見つかったり、大切なかぎがみつかったりなど、悲しい分、いい事もあった。私はこの大震災でふつうの生活がとても幸せだということに気づいた。私は、この体験を何かにいかしていけたらいいなと思う」(石巻市小4)
「きょうしつですごしたその日のよるは、とてもさむかったです。おとうさんとおかあさんにあいたかったです。つぎの日、おとうさんがむかえにきました。おとうさんと学校から下りていくと、いつも見ていたたてものがなくなったりしていました。くるまもいっぱいつぶれていました。はしもこわれていました。ぼくのいえは、はんぶんこわれていました。ぼくはとてもかなしかったです。…たいいくかんでせいかつしているあいだ、たべものやふくなどひつようなものをたくさんもらいました。…ぼくはたくさんの人にたすけてもらっているんだなあとおもいました。こまっている人がいたら、ぼくもたすけてあげたいです。そんなつよくてやさしい人になっていきたいとおもいます」(南三陸町小1)
「震災の前、大好きな私の家で家族みんなで生活していたこと。お母さんと一緒にごはんをつくったこと。家族みんなで食べたこと。いつでも電気がついて蛇口をひねれば水がでたこと。あたりまえのように思えていたその一つが決してあたりまえのことなのではなくて、とても大切で幸せで何よりもの宝ものだと思うのです。…その日から今まで、つらいこともたくさんでした。これからもまだまだです。変わり果てた町の姿に心が張りさけそうにもなります。でも私は、この町で一生懸命生きていこうと思います」(南三陸町小6)
「ぼくは、かえりがくどうばしをわたっているときに、じしんがおきました。はしのまん中ぐらいまで、あるいてきたときすごく大きくはいsがゆれてとてもこわかったです。まだゆれているとき高校生のおねえちゃんたちがぼくたちをまもってくれました。…ぼくのいえはもうながされたからひなんじょで生かつしていました。ひなんじょでともだちもふえて、たのしかったです。とおくにいくともだちもいて、そのときはないちゃいました。おなじへやの人たちは、いもうとの4さいのたんじょう日におめでとうといってくれたり、うまれたばかりのおとうとのめんどうを見てくれたりしました。みんなもぼくもはやくふつうの生かつにもどればいです。てんこうしたともだちもたくさんいてさみしいけど、ぼくはがんばります」(気仙沼市小1)
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