12月22日午後、いわき市内で「元原発労働者、衝撃の告発」という企画がありました。
主催は「原発をなくすいわき市民の会」。
2012年7月から12月まで福島第一原発で、
汚染水タンク組立などの作業に従事した労働者、上地剛立さんが証言しました。
「『震災復興に伴う現場でのお仕事です。簡単な作業』という東建興業の募集に応じた」
「東建興業から給与振込はあるものの、給与明細が渡されないためおかしいと思って言うと、雇用先がテックに変わった」
「打設したコンクリートは1週間ほど乾かして重機など重いものを入れるべきだが、2.3日で入ることもあった」
「汚染水の注水口にガムテープでふたがしてあった」
「タンクの基礎コンクリート打ちは素人作業でゆがみタンクが水圧により変形していた。そのためタンクが変形した」
「コンクリート打ちでは鉄筋の代わりにワイヤーメッシュを使っていた」
などと証言しました。
会場には帰還困難区域・浪江町の出張所が
続いて、原発労働者の労働条件改善の相談活動をしている
日本共産党の渡辺博之市議が報告。
以下は、渡辺市議が報告した原発労働者の告発文書より。
* * *
提訴したDさんの意見陳述(2013年9月)
このたび、一方的賃金引き下げと危険手当の未払い、解雇の件で意見陳述します。
平成23年7月上旬、S社社長から
「福島原発で軽油運搬の仕事をしないか」という誘いの電話がありました。
しかし福島原発と聞いて、放射能も怖いし、家族の反対もあって、2度断りました。
3度目の電話で、同じ東北の人間として日本中が困っている時に、
少しでも役に立てればという気持ちになり、一大決心して福島へ行くことを決めました。
一大決心で来た福島原発の仕事は、口約束ということもあって、
1回目の給料のときからトラブルが続きました。
S社社長とは、1回も面会をしないですべて電話の口約束で、
「1日3時間ぐらいの仕事、放射能もわずかで心配いらない」と、言われました。
私の娘(当時16歳)は病気を発症しており、
妻もやむなく仕事を辞めて娘の看護に当たり、
私も月1回、娘の経過を見に実家に帰っておりました。
妻が仕事を辞めたため、
家のローンや病院代、帰省にかかる旅費、
社会保険未加入なので毎月の高い国保料金もあって、
私の収入だけで切り盛りするのは大変なことでした。
妻が仕事を辞めても、「最初の約束の日当なら」と思いS社に入社したのに、
“会社を解雇されたら”という恐怖もあって、社長に強く抗議することもせず、
不満を持ちながら、家族のことを考え仕事を続けました。
8月上旬にY社の事務所で、
「原発に入って、仕事をして健康被害が起きても、会社を訴えません」
という内容の文書を書かされました。
Y社に直接聞いたら「(元請けの)大成建設に言われて書いている」と語っていました。
S社社長は、原発の現場には一度も来ないので、
放射能を浴びることもありません。
仕事の内容も把握しておりません。
だから、私たちのWBC検査(ホールボデイーカゥンター・内部被ばくの検査)
に関しても、知識もなく関心もありません。
危険手当という言葉はどこの場面でも聞いたことがありません。
自己都合の離職票も勝手に作られ、
金銭的にも精神的にも追い詰められた私たちの生活を思うこともありません。
原発まで行く途中、道路も崩れ、家々は崩壊し、
牛も大も猫も路頭に迷い、また車にひかれ、
地震のすさまじさと、見えない放射能の不気味さを感じ、
故郷へ帰れない人たちの怒りやつらさが、一日でわかりました。
廃炉まで莫大な費用をかけて作業をすれば、
これから先多くの作業員の健康被害も予想されます。
雇用条件を勝手に作り変え、
使い捨てのように労働者を解雇にする会社があれば、
ますます作業員は集まらないと思います。
そして、災害復旧という正義感ある言葉を利用し、
作業員の危険手当をピンハネして、
金もうけに走る企業を管理できない東京電力にも重大な責任があると思います。
S社およびY社、元請けの大成建設、東京電力の方針に怒りがこみ上げ、
本当に悔しい思いです。
会社のために、東北のためにと思い、1年3ヶ月間働いてきました。
できることなら、家族の反対を押し切り覚悟を決めてきた原発ですから、
福島の人たちが安心して住めるまで、少しでも長く仕事をしたかったです。
私たちが行動を起こすことによって、
少しでも原発労働者の条件が改善されることを願って、意見陳述とします。
原発収束作業の前線基地 Jヴィレッジ
Jヴィレッジの近くに張り巡らされているポスター
別の方の告発は以下のPDFにて。
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