今回の大震災で、「津波てんでんこ」という言葉がマスコミなどで取り上げられた。
しかし、その由来について、正確に報道されていない向きもある。
以下は、山下文男氏著「津波てんでんこ 近代日本の津波史」(2008年新日本出版社)から。
山下文男氏は、元日本共産党文化部長で、歴史地震研究会会員。
日本自然災害学会賞等を受賞、津波防災に関する著作多数。
新聞などを見ると、三陸海岸には「津波てんでんこ」という言葉が昔からあったかのように書いている。
どうでもいいようなことだが、本当をいうとこれは正確ではない。
自分でいうのも恐縮だが、1990年、第1回「全国沿岸市町村津波サミット」が開催されたとき、会場が岩手県の田老町だったこともあって、私が「津波災害の歴史的教訓」という特別講演をさせて頂いた。
そのなかで私は、昭和の津波のとき、末っ子(小学3年)だった私の手も引かずに、自分だけ一目散に逃げた父親の話をし、後に、事あるごとにその「非情」を詰る母親に対して「なに!てんでんこだ」と、向きになって抗弁した父の話を紹介した。
そして、津波のとき共倒れを避け、一人でも多くが助かるためには、非情のようだが、これは仕方のないことだと締めくくった。
明治三陸津波では共倒れが非常に多く、私の家でも祖母が子どもと共倒れになっていて、父は、せめて母親だけでも生きていて欲しかったと繰り返してその死を惜しんで我々子どもたちに話していた。
ところで、このサミットには先年、惜しくも故人となられた東大新聞研究所の広井脩さんをはじめ、阿部勝征(東大地震研究所)、津村建四朗(気象庁・地震学)、伊藤和明(NHK・地学)、渡辺偉夫(日本気象協会、地震学)といった、そうそうたるメンバーが出席していて、私の話のこの部分にたいへん興味を示され、「津波」と「てんでんこ」を結び付けて「津波てんでんこ」の話になってしまった。
そしていつの間にか「津波てんでんこ」が三陸海岸に昔からあった言葉のようになってしまった。
以上が「津波てんでんこ」という言葉の由来だが、裏付けになる真実がなければ、言葉は広まらないし説得力も持たない。
近くは北海道南西沖地震津波のときだが、奥尻島の青苗地区では、言葉にならないほど痛ましい共倒れが多かった。
そこで、三陸海岸における「津波てんでんこ」の言い伝えが広井脩さんによって持ち出され「こういう話がもっと普及しており、それを青苗地区の人たちがよく知っていたら…」ということになり、新聞の社説(2003.9.27「朝日新聞」)などでも「津波てんでんこ」が取り上げられるようになった。
三陸津波だけでも北海道南西沖地震津波の時だけでもない。
関東大震災のときも、東南海地震のときも、南海地震のときも、同じように共倒れの悲劇が繰り返されている。
そうした悲劇を出来るかぎり無くしたい。
その願いが、この本のタイトルになった。
【岩手県旧重茂村(現宮古市)姉吉地区の「大津浪記念碑」碑文】
高き住居は 児孫の和楽
想へ惨禍の 大津浪
此処より下に 家を建てるな
明治二九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て
部落は全滅し、生存者、僅かに前に二人後ろに四人のみ
幾歳 経るとも 要心あれ
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