甚大な被害をもたらした東日本大震災・原発事故から1年7ヵ月。
この大災害は、戦後最大の災害であると同時に、
福島第一原発事故に見られるように二重・三重の「災害」です。
多くの被災者は、仮設住宅をはじめ県内外に避難を余儀なくされています。
そして仕事も生業も人権も失われ、自殺者や仮設住宅でも孤独死は増加しています。
10月6日~8日、
「被災者本位の復旧・復興をめざして‐とりくみの510日とこれからの課題‐」をスローガンに、
「全国交流集会2012inみやぎ」が開催されています。
災害被災者支援と災害対策改善を求める全国連絡会(「全国災対連」)と
東北3県の「センター」による実行委員会の主催です。
参加者からの現地リポートです。
* * * *
10月6日(土) 「被災地現状視察」の内、南相馬市小高区のレポートです。
南相馬市の渡辺議員(日本共産党)の案内で、
福島原発20キロ圏内の状況を見ることができました。
渡辺さん自身も12キロに自宅があり、農業を営んでいたとのことですが、
昨年の3月11日から今年4月16日まで帰ることはできず、
それ以降も、泊まることはできません。
今は目の前のたんぼにセイタカアワダチソウが3mも「育つ」畑となっているそうです。
JR小高駅の奥には2011年3月11日以降の放置された高校生らの自転車があります
私たちが見ることができたのは10キロ圏内手前まで、
復旧作業をする工事関係者以外の姿をみることはありませんでした。
この地域の捜索は3月12日夕方までは行われましたが、
4月下旬に再開されるまでほったらかしでした。
今年4月16日以降、日中の一時帰宅は許されましが、水もない家で生活もできず、
1~2週間、家のかたづけをするのが精一杯で、その後帰ってくる人は少ないのです。
南相馬市小高区の震災前の人口は12834人でしたが、今の市内居住者は5698人。
市全体の震災による死者953人(2012年8月29日現在)の内、
原発事故によって、長期、遠隔地、何回もの避難を余儀なくされたために
高齢者が多い地域で多くの方が体を壊しました。
関連死は327人にも達しています。
小高区の徐染はまったくされていません。
自衛隊などが搜索のために集めたガレキがあちこちに山積みされています。
小高区には小学校が4校、中学校が1校ありましたが、
現在市内の鹿島区に移転されたも、震災前の児童数は小学校で26%、中学校で35%です。
小高区の商店街はシャッター通りではなく、元気な商店街だったのに、この現状です。
中心街の商店街は、昼の一時帰宅が「許可」された中でも人通りはまったくありません1年半も放置され朽ち果てたしまった家や店が連なっています。
病院も老人施設も持っている機能の半分しか果たせていません。
原発のせいでスタッフが確保できないのです。
20キロ圏外の地元の商店は、住民が帰ってくる中で暮らしを守らなければという思いで再開しましたが、
全国チェーンの店舗にはそういう意識はなかったのです。
県外のマスコミ報道を見ると、
原発被害地域のことを「意識的に忘れさせようとしているのか」と思います。
20キロ圏内の家や店舗に掛けられている屋根のブルーシートは、
東電が居住者への断りもなしにかけたものです。
その意図は放射性物質が家などに入ることによる
賠償を少しでも少なくしようとするねらいからに他なりません。
海沿いの地域はポンプが破損したため、田畑が水没し、道路も冠水したまま
「原発水害」という問題もあります。
津波でいったんは水門を閉めましたが、その後津波が治まる中で、
今度は上流からの流れで川が氾濫しないように
水門を開けなければならなかったのです。
しかし、原発事故で水門を開けに戻ることもできず川が氾濫してしまいます。
自衛隊も動かしやっとの思いで開けに帰ったが、
結果として、津波では被害に遭わなかった地域が、
水害で甚大な多くの被害が起きてしまったのです。
小高区にも原発建設計画がありました。
「3.11」後の事態の中でも、東北電力は計画撤回を表明していません。
約25キロ地点にある仮設住宅
もとより、今回私たちが見聞きした状況は、
被害者の皆さんが体験し、今なお体験していることのほんの一部です。
しかし「阪神・淡路」以来たたかってきた阪神、全国の運動の蓄積が
今後のたたかいにつながるに違いありません。
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