12月の「憲法県政の会」の懇親会で、ひとしきり上方落語が話題になった。
それに触発されたわけでもないが、9日、かねてから行きたいと思っていた池田市の「落語みゅーじあむ」を訪れた。
「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」など、「北のたび」の舞台であった池田市の市立上方落語展示館である。
入館料無料、DVD・CDの視聴も無料だが、もっと値打ちのあるのは、落語に関する書物が豊富に展示されていることだ。
その中に、貴重なものを見つけた。
「上方芸能」の創刊号からのバックナンバー。
創刊号(1968年4月26日)はB5版ガリ版で確か8ページだった。
このブログは10月29日に同誌発行人の木津川計氏の講演を紹介したが、1969年1月25号には、木津川氏の「生み出そう 諷刺的な笑いを」との記事が載っている。
少し長くなるがご紹介したい。
真の諷刺は対象を震撼させる力をもっています。なぜなら諷刺精神の持ち主は対象の本質を見抜いているからです。
今日、真の諷刺精神、諷刺的な笑いが大量に生み出されねばならないのは、ごまかしやまやかしの政治が支配しており、そこから私たちの生活のすみずみにまで虚偽の論理が浸透していることにあります。
諷刺の材料にはこと欠きません。
例えば、1月15日の夕刊が原子力空母エンタープライズでの大爆発を報じました。
もし、原子炉が被災したらどういう事態になったでしょうか。
「身の毛もよだつ」という言葉で表現される内容は一昔前と質的に変わってきています。
ところが驚くべきことに、政府筋は原子力艦隊を寄港さすという従来の方針は堅持する。
その理由として、大火災にかかわらず原子炉が爆発しなかったのは、その安全性がこの事故で逆に保証されたという見解を表明したというのです。
原子炉の安全性を危険きわまりない大爆発で保証せねばならない論理、驚くべきことといえましょう。
諷刺的な笑い、それは怒りを感情的な土台にしています。
怒りを呼びおこす事態はひきも切らずに起こります。
階級社会が続く限り、働く人たちの怒りは消えません。
対象を震撼させる諷刺もまたなくならない理由がここにあります。
笑いは庶民が権力あるものを諷刺し、批判する中で「成長」してきた。
年明けから、何やらきな臭い動きが絶え間ない。
そんな「輩」を吹き飛ばす庶民の心意気を見せようではないか。
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