訪ねたその店は、100m足らず四方の公園の前にあった。
実は彼の家は、戦争中はその公園の中だった。
近くにあった川崎航空機工場を目標の米軍空爆で、付近一帯の民家とともに、その家は全焼した。
私にも経験がある。
学徒動員でいた呉市で、海軍空廠めあての米軍空襲で、市街地全域が焼けた。
市内を縦貫して郊外に出ようと歩いた町は、3月なのに真夏のようだった。
何の罪もない、むこの命までも奪い去られる戦争のむごさ。
1945年3月17日、神戸大空襲。
あの戦争から66年が経った。
今また、ごまかしの「安全神話」をふりまいた原発推進政策の破綻によって、市民の命が危険にさらされている。
いや、直接被曝による犠牲に至らなくても、地震と津波で体も心も傷ついた被災者にとって、数度の避難は生命の灯をあやうくするものに他ならない。
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