「生業を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟の
第2回口頭弁論(2013年8月23日)で、
原告の紺野重秋さん(福島・相双民商会長)が行った意見陳述を紹介します。
* * * *
1 原発事故が起きるまでの生活
私は、福島県双葉郡浪江町で生まれました。私の家は、この土地で、明治時代から農業や養蚕を行ってきました。私は、地元の高校を卒業した後、実家を継ぎ、妻と一緒に農業と養蚕を行ってきました。その後、自ら自動車工場を始めることになり、息子たちと一緒に仕事をし、近年では経営も安定していました。農業も、家業を途絶えさせるわけにはいかないという思いで、妻と一緒にずっとやってきました。妻と長男と同居し、また、四男一家も私の家の近くに住んでおり、孫たちもしょっちゅう遊びにきていました。町内は、みんな親戚のように仲が良く、花見や祭りなど、頻繁に交流していました。
2 私の家
4~5年前、ちょうど自動車工場の事業も順調だったので、私は実家を建て替えることにしました。建て替えのために何年もかけてお金を貯め、材木も自分の山から私が2~3年かけて切り出した杉、檜、松を使って、建坪100坪の大きな家を作りました。全部で1億円かかりましたが、素晴らしい家で、私が自分で建てたとても自慢の家でした。
3 原発事故直後の状況
2011年3月11日に大地震が起り、翌12日朝5時前、「早く避難しろ」とだけ告げる町の広報車の音で目が覚めました。訳がわからないまま着の身着のままで家族と津島の高校、二本松の親戚の家へと避難し、そこで初めて福島第一原発事故のことを知りました。私は福島第一原発の差止訴訟もやっており、その訴訟では、私たちは地震が起こると原発が大変なことになるという主張をしていました。ああ、やっぱり事故は起きてしまったと目の前が真っ暗になりました。私はもう一生、子どもたちもこの先何十年も家や町に帰ることができないと思いました。
その後、1ヶ月ほど福島市の県立体育館に避難しましたが、この苦労は体験した者でないとわかりません。着の身着のままで避難したため、ようやく新しい下着を手に入れたのは3月末でした。体育館では膝丈くらいのダンボールで仕切られ、プライバシーなど全くありません。トイレに行くのも食事を貰うのも、何をするにも何十分も並ばなくてもなりません。配給される食事もおにぎりやパンばかりで、明らかに腐っているものもありました。ある夜、咳が止まらなくなり、死ぬのではないかという苦しみの中、救急車をたのみましたが、歩けるからと断られました。なんとか病院に行きましたが、数時間遅れたら大変なことになっていたと言われました。
その後、猪苗代の民宿に移り、現在の借り上げ住宅に移りました。しかしそこは狭く親子3人での生活が難しく、長男は別の住宅を借りて出ていきました。四男も群馬に避難し、家族はバラバラになってしまいました。
4 現在の生活
私は福島の体育館に避難したころから、浪江のころのお客さんから車の修理を頼まれていました。浪江のお客は簡単にお店を変えたりしません。避難しても、元々頼んでいた工場がなくなっても、避難先の工場に新しく頼むではなく、元々頼んでいた工場に頼むのです。そのことから、現在は、長男が福島市で自動車修理工場を始めています。
しかし、新しく工場を始めるには、新しい機材や保証金に何百万円のお金がかかりました。浪江にいた頃は必要でなかった毎月の賃料や経費で80~90万円の出費があり、経営はとても苦しい状態です。着の身着のままで避難したため、生活必需品や避難費用にもかなりの出費をしていますし生活は苦しいです。
浪江にいた頃はみんなで野菜を融通しあい、野菜を買うということはありませんでしたし、夕方になると自然と誰かの家に集まって飲むという家族のような暮らしをしていました。いまでは、地域のみんながバラバラになり、会うことが難しくなったことも、身を引き裂かれるようにつらいです。
5 国と東電に対する思い
私たちは福島第一原発の事故によって、先祖代々の土地も、仕事も、家族や友人たちとのつながりも、全て失いました。私は76歳になりますが、この年で生まれ故郷から無理矢理離され、気候も違う馴染みのない場所に突然投げ込まれました。私たちはお金が欲しいのではなく、事故が起る前の暮らしに戻りたいだけなのです。
私は現地調査の案内に実家を度々訪れますが、訪れた人はみんな、テレビが言っていることと全く違う、事故から2年半になるのに草ぼうぼうでがれきが残ったままだと驚きます。将来、制限区域が撤廃されたとしても、電気が通っているのみで水道も病院も商店もなく、知り合いもおらず、草ぼうぼうでがれきだらけの状況ではとても帰ることはできません。線量も下がる目処も立っていません。裁判官には国や東京電力が帰れと言っている私たちの町の現状を是非見に来てください。
現在も、全く事故は終息していないのに国や東京電力は原発を安全だといって再稼働させようとしています。正気の沙汰とは思えません。私たちと同じ被害を、全国に繰り返そうというのでしょうか。国と東京電力は、しっかりと責任を取って下さい。すべてを元に戻してほしい。それが私の思いです。
20130930 全国商工新聞 「生業を返せ」訴訟をダウンロード
最近のコメント