あの日も暑かった。
正午に講堂に集められた。
当時、高校は1年生は全寮制で、食糧事情から関西からの学友も多く、電話もなかった時代、何の連絡も無しに全員集まった。
戦争最優先で、夏休みなぞも無く、全員寮にいたからだと思う。
「玉音放送」ということで、“起立っ”の声に、直立不動で耳を澄ました。
だが、ピーピー・ガーガーと雑音のみ響いて、「世界の大勢と、帝国の現状とに鑑み、…耐えがたきを耐え…」ところどころ聞き取れるのみ。
何となく誰言うと無く“負けたんや”と呟きながら、明日の世情を心配し合った。
あの日、進学しなかった学友たちは、呉や江田島の海軍空廠として、まだ兵器生産に携わっていた。
海軍将校たちは、私たちの仲間に、どう説明したのだろう。
65年経った今だに、聞いたことがない。
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